いよいよ大和へ、そして吉野へ
    ── 還都への動き
 
     (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)10月1日第302号)

●今年平成二一年九月二三日、産経新聞に大きな写真付の小さな記事が掲載された。
 (http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090923/acd0909230044000-n1.htm)
記事の見出しは、

  壮麗「大極殿」全貌現す

となっている(写真は上記産経新聞ホームページより)。文化庁によって復元が進められてきた平城宮の中心的建築物「平城宮第一次大極殿正殿」の素屋根(蔽い屋根)が前日二二日に撤去され、その金色の鴟尾(しび)と丹塗柱(にぬりばしら)が目にも鮮やかな大極殿の全容をヘリコプターから写真に撮ったという記事である。
 一枚の大きな写真には、その大極殿を奥側の上半分に、手前の下半分には同じく復元された朱雀門が写っている。来年平成二二年正月元旦から始まるという「平城遷都一三〇〇年祭」開幕のちょうど一〇〇日前に当たる日に全貌が明らかにされたのである。
●「平城遷都一三〇〇年祭」については来年一年限りで終わるお祭り騒ぎであり、今ここに触れる要を感じない。鳴物入りで採択された大会マスコットの「せんとくん」がてんで不人気で、地元有志から新たに「まんとくん」が提案され両者が喧嘩したとか仲直りをしたとか、どうでもよい話である。
 大事なことは、第一次大極殿を復元した文化庁の意図が何であれ、我々の前に紛れもなく祭政一致のまつりごとの場が出現したということだ。大和へ、そして吉野への還都を願う者にとって「平城宮第一次大極殿正殿」は還都への確かな象徴である。
●今上陛下は平成一九年正月歌会始において、

  務め終え 歩み速めて 帰るみち 月の光は 白く照らせり

という御製を下された。大御心を推察するのは畏れ多いことながら、御製が常に勅であることに鑑みれば、御製は大和への還都を指示されているのではなかろうか。寡聞のとても及ぶところではないが、月の光に照らされた白いみちとは、真宗関係の説法でよく引用される善導大師の「二河白道」の比喩とは関係なく、和歌の言葉で大和路のことだという。陛下は「歩み速めて」そのみちをお帰りになると御製に示されたのである。
●去る九月二八日、陛下は皇居内水田において五月にお手植えになった粳米ニホンマサリと餅米マンゲツモチの稲を刈られた。今号常夜燈にもあるように、高天原からの天孫の降臨に際して「神さまと同じ食べものを食べるように」と親心から態々持つて行くことを勅で指示されたのが「齋庭(ゆには)の穂(いなほ)」=稲なのであった。すなわち、米こそは、収穫量においても栄養価においても、また深い味とコバルト色に輝く美しいその姿においても、日本文明が育んだ究極の食物であり、磨き上げた芸術品であると言ってよい。そのために費やされたわが先祖たちの労苦がどれほどのものであろうと、米作りの中心には常に変わることなく今上さまの型示しがあったのだ。米作りはまつりごとと暮らし(日本ではそれは一つだった)の中核にあって、労苦であるとともに尽きせぬ喜びでもあったのである。
●周囲に高厦群れなす徳川千代田城の中の水田で稲刈りをされる陛下のお姿を何とも痛々しいと思うのは私だけであろうか。江戸を東京と改称し怒濤の西洋文明に抗してすでに百四十有余年、それは今上さまをあるべきみやこから拉致し東京行宮に押し込め奉った長い年月でもある。だが、来年平成二二年は皇紀二六七〇年の大きな節目、この時に平城宮大極殿は用意された。一日も早く行宮を解き、「歩み速めて」の大和御還幸を願うばかりである。

大和へ、そして吉野へ 3 
(世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月15日第288号)

●「さればこそ」とは、皇統奉公衆の存在を聞いたときの私の安堵の思いである。国の威信を身に帯び国際場裡で国益を守るべき任にある外交官たちが、角田稿の詳説するように赴任先の国に迎合して右顧左眄する。外務省というより「害務省」と呼ぶのが相応しい外交機能しかもたない国がどうして毀れてしまわないで存続しているのか。誰が考えても不思議である。だが、そこに皇統奉公衆の活躍を置いて考えると、ようやく辻褄が合うのである。そして同時に、「そうでなくては」とも思うのだ。ただし、栗原茂はこうも述べている。

 神格天皇三代(明治・大正・昭和)の禊祓に順って働くなか、日本政府の頽落(たいらく)を補うだけに止まらず、敗戦後の外地乱世を緩和するため、世界各地に重大な痕跡を刻んでいる。この皇統奉公衆の勇躍は潜在性が道議であり、それがまた奉公の本義であるため、大江山系霊媒衆や在野浪士の働きに同化しても、その連続性を保つ伝承法は完全に一線を画している。

したがって、その存在は決して表には出ないし、また出てはならないのであろう。あるいは、冒険家・探検家として世界中に有名な植村直己のように、まったく別の姿を世間に晒し韜晦する場合もあるに違いない。
●役行者すなわち役小角もまた紛れもなく皇統奉公衆の一人であった、いやその棟梁であったと考えられる。古来より謎の人物とされる役小角について、明治の文豪坪内逍遥が『役の行者』という戯曲を書き謎に挑戦しているが、役小角の真相に迫るには至らなかった。関東の高尾山や三峯神社ばかりでなく日本全国の霊山霊地にお参りをして奥の院まで足を延ばせば、そこに役行者が祀られているのを眼にする。往々にして「役行者がこの山を開いた」などという開山縁起の説明書があったりするのだが、それでは一体、「山を開く」とは何なのか。一般に役行者は修験道の開祖ということで納得されているが、「修験道」とはそもそも何ぞや。
 昨今流行のアウトドア・ライフでもあるまいし、さらには「修験道」という宗教教団ないしは一宗一派を建てるのが役行者の目的だったとも思えない。まして逍遥が注目した韓国(からくにの)連広足(むらじひろたり)との軋轢やその讒言など「政体」絡みの憶測は、的外れも甚だしいというべきである。
●そこで、私なりの想像を逞しくして考えてみた。神格天皇の吉野(より正確には大峰ないしは大台ヶ原か、詳細不明)における霊峰富士の遥拝に際し、同時に全国の霊峰霊山において役行者の徒らが神格神事に合わせて富士遥拝の神事を行なうのだ、と。
 霊峰霊山にはそれぞれ神がおられる。その神々もまた、神格天皇の富士遥拝に軌を一にして富士を拝むのである。
 役行者による「山開き」とは、この一大神事のために神々を説得すること、そしてそれぞれの神々の氏子に神事の要諦を教え神格による神事を全国的に支えること、このことの謂であったのではないか。
●日本全国の神々がいっせいに富士を遥拝する。霊峰富士は不二であって、天照大御神のご神体である。その上空一〇キロメートルには富士神界がある。この日本全国の神々が挙って参加する一大神事の中核にあるのが、神格天皇なのである。神々もまた神格の神事には順うのである。神格による一大神事が恙なく行なわれるためにこそ、私は「大和へ、そして吉野へ」と願う。

大和へ、そして吉野へ 2 
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月1日第287号)

●先稿において東京行宮からの速やかな御還幸を願う一文を書いたところ、どうして京都への御還幸ではなくて、いきなり「大和へ、そして吉野へ」なのか、疑問の声が同志飯田孝一氏から寄せられた。まさに天の声とはこういう批判をいうのではないかとハッと襟を正さずにはいられないような鋭い指摘である。
 言われて初めて気づいたのだが、私の中では、「京都への御還幸」ではこの非常時に対処できないとの思いが強固にあり、心急(せ)くまま何の説明もなく、「大和へ、そして吉野へ」となったのであった。
●もちろん、京都をまったく無視してよいはずはない。紛れもなく、京都はわが千年以上の都である。明治天皇が「ちょっと行ってくるよ」と言われたのは、東京で用事が済んだらまた京都に帰るよというお気持ちがあったからであろう。
 ただし、皇統にとっては東京で西洋近代文明に対する防波堤たらんと出御されたのと同じように、山背への遷都もまた、時の国難に対する大御心からの御無理であったのではないかと推察する。当時の歴史を繙くまでもなく、平安京制定の詔「山背国を山城国と改め平安京の號を定め給ふの詔」(延暦一三年一一月八日)を見ると、京都が都とされたのは

「山河(さんが)襟帯(きんたい)、自然(おのずから)に城(しろ)を作(な)す。斯(こ)の形勝(けいしよう)に因(よ)りて」(錦正社『みことのり』平成七年刊に拠る)

とある。つまり、戦時用の砦だったのである。「四神相応の適地」だから、都となったのではないのだ。
 桓武帝の遷都を承けて、京都を永遠の都と定められた平城天皇の詔(大同元年七月一三日)もまた、

「此(こ)の上キ(じようと)は先帝(せんてい)の建(た)つる所、水陸(すゐりく)の湊(あつま)る所にして、道里惟(こ)れ均(ととの)ふ。故に?勞(ざんろう)を憚(はばか)らず、期するに永遠を以てす。棟宇(とうう)相望み、規模度(ど)に合ふ」(同)

との理由を挙げてあって、永遠の都を定めた詔にしては余りにも消極的な調子が目立つのである。
 京都は度重なる兵火に見舞われたとはいえ永年の都という地位に安住し、あえて誤解を覚悟して鄙見を述べれば、コスモポリタンの巣窟と化した観さえある。皇統御神事の場には決して相応しくないと考えられる。現在の結構を残すとしても、せいぜい稀に行なわれる外国賓客引接の用途、すなわち迎賓の場とするのが適切ではないか。
●そもそも、「吉野とは何か」との永年の大疑団がここにきて氷解したのは、同志栗原茂氏のご教示のお蔭である。民草にすぎない私にとって吉野御神事の有様など窺う術もないことであった。それを栗原氏は懇切にも、吉野の吉野たる所以を教示下さった。さらに先日、稿成ったばかりの論考を示され、吉野御神事には万全の備えあり、何の心配も要らないと教えられた。その論考にこう書かれている。

 奉公の神格モデルは皇紀暦制定前にも存在しており、先住民も渡来人も、その威徳に順い奉公を身に帯び各種の姓((かばね)家業)を設けていた。この姓に巣立つ異能の先達(せんたち)こそ、皇紀元年から世界各地に配置され、天文気象のほか場の歴史を情報化のうえ、生涯を奉公に尽くして悔い無き人生と自覚する達人(たつじん)である。この先達は男女を問わず幼年三歳ころから世界の結界(けっかい)領域を修験(しゅげん)の場とし、成年一五歳に達すると、その動向は広域に及んで、一旦緩急あ(いったんかんきゅう)れば義勇奉公これ天壌無窮の(てんじょうむきゅう)皇運(こううん)に身を委(ゆだ)ねて惜しまない。この先達たちをいま、「皇統奉公衆」と仮称する。

と。

 大和へ、そして吉野へ 1
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)1月15日第286号)

●先に宮内庁から主上御不予の原因が「御心痛」であるとの発表があった。その御心痛の内容をあれこれ論うことは厳に慎むべきだと思われる。ただ、どのような御無理から陛下が御心痛を感じておられるのか、一人の民として止むにやまれず思いを巡らしてしまうことまでは禁じがたい。
 今上陛下の御心痛の原因かどうかは定かではないが、陛下に御無理をお願いしている最大のものは、この東京に期せずして長々と御滞在をお願いしていることであり、これに勝る御無理はないのではないかと愚考する。
●そもそも、江戸を東京と改称はしたが、それは「遷都」でも「奠都(てんと)」でもない。「東京遷都」あるいは「東京奠都」なる詔は存在しないのだ。
 慶応四年(皇紀二五二七)七月一七日、「江戸を改めて東京と稱する詔」が出された。

「朕、今万機ヲ親裁シ、億兆ヲ綏撫(すゐぶ)ス。江戸ハ東國第一ノ大鎮、四方輻湊(ふくそう)ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自今、江戸ヲ稱シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶、此意ヲ體セヨ」(『みことのり』平成七年、錦正社)

 これを「東京奠都」の詔とする誤解が一部にあるが、この詔の趣旨は江戸を東京と改称するということにある。「奠都」を指示した詔と解するのは謬りである。ただ、東京とは「東の京」、つまり「西の京」に対する「東の京」だという含意があるのは否めない。「京」の字を使うからには、江戸を「みやこ」としたいとの意がある。だが、明確に江戸へ遷都ないしは奠都すると宣言できない事情が当時はあったのである。その苦衷が「衆庶、此意ヲ體セヨ」との文言になったのではなかろうか。
●江戸東京改称の詔が出された翌月、八月二七日に明治天皇御即位の宣命が発表された。そこには、はっきりと

「掛けまくも畏き平安京に御宇す倭根子天皇が宣りたまふ」

とあり、天皇が御 宇(あめのしたしろしめ)すのは平安京、すなわち京都であることが紛れもなく示されている。「みやこ」は依然として京都であった。
 ところが、同年九月八日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月二〇日には東京へと「行幸」される。「行幸」とは天皇が一時的にご旅行されることで、ご旅行が終われば、当然京都へ還幸される。御滞在が長くなる場合は、仮の御殿を建てた。それが「行宮(あんぐう)」である。
 明治天皇は京都御所の御側近の方々には、「ちょっと行ってくる」と洩らされたとも伝わっている。明治天皇にとっては「関東が大へんそうだから、ちょっと行って面倒を見てやろう」というほどのお気持ちだったに違いない。以来一四〇有余年、われわれが不甲斐ないばかりに、主上に東京行宮という仮の宿に御滞在しつづけて戴いているのである。この御無理は速やかに改めなければならない。
●なぜ、東京が「みやこ」であってはならないのか。最大の理由は、東京では霊峰富士を東に遥拝できないからである。天武天皇の吉野滞在をはじめ、持統天皇三一度の吉野行幸、後白河法皇の吉野行幸など、歴代の天皇が危機に際して吉野へと向われたのは、霊峰富士を遥拝され、皇祖皇宗に御祈念されるためであったのだ。いまわが国は主上に「御心痛」を余儀なくするほどの危機にある。この危機を打開するには、まず主上に大和へ、そして吉野へと御還幸して頂くのが先決なのである。

 新還都論 W ── 大和に同床共殿を!
    (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)6月1日第163号)


●本号巻末「常夜燈」欄に「立國論に寄せて」という一文が載せてある。日本経済の再生を担うべき「経済特区」に関連して、このところ喧しい「立国論」に肝心要の中心が欠けていることを指摘したものである。
 時宜にかなうその都度その都度の対応策は、もちろん必要であろう。だが、緊急対応策をいくら積み重ねても、わが日本が国家として立つ目標は出てこない。中心を建てること、それを円と中心の比喩で語ってある。
 しからば中心を建てるとは、どういうことか。日本が国家を挙げて取り組むべき理想を建てることでなくてはならない。外国の猿真似でもなく、外国の強制に従うのでもなく、わが国自身の内からほとばしり出る理想でなくてはならない。
 ここではじめて、わが国がどういう国柄であるか、その国柄に相応しい理想とは何かが問われることになる。
●顧みれば、わが国はそもそも国の成り立ちのはじめから、この地上に「神の国」を建設しようという理想を掲げてきた。もちろん、神々の世界と人の世とは相異なる。しかし、この地上に神の世界と同じような国を造ろうというのは神々の決定されたことである。
 そのために、神の御子が人として下された。人が生きていくために必要不可欠の食糧も神のご配慮によって与えられた。そして、人となっても「私が付いているよ」ということを忘れないように、神のご加護があるように、また神国を建設するという理想を日々新たに思い起こすように、神の似姿を身近においてお祭りしなさいというご指示まで戴いている。そのうえで、「さぁー、やってみなさい」と言われているのである。
●何と懇切にして丁寧なご配慮であろうか。まるで、親が子を思うが如き配慮なのである。至れり尽くせりなのだ。それも当然といえば、当然かもしれない。この日本で国造りをするのは、他ならぬ神のわが子なのである。
「あれで苦労しやしないか、これが足りなくはないか、私の気持ちを忘れてしまうのではないか、……」
 さんざんに考え抜いたすえに、これだけは持たせたいと与えて下さったのが、「立國論に寄せて」にもいう三大神勅なのである。
 そして、大和橿原の地に初めての都が開かれたとき、神のご指示に違わない、みごとな「建国宣言」が行なわれた。
「ここまで頑張って、ようやく神の國の基礎づくりができました。これからも、天の下のつづく限り、地の果てまでも、神のご指示に従って民が幸福に暮らせるよう、神国の建設に邁進して参ります」
 これが、わが肇国の理想であり、いわゆる「八紘為宇」の御詔勅である。
●「立國論」と言うとき、この肇国の理想がすぐさま思い浮かばないところに、問題のすべてがある。わが国の精神的伝統を意図的に断ち切った占領政策はいうまでもなく、至れり尽くせりの神のご指示を、われわれがほとんど忘れ果てようとしているからである。
 それならば、あらためて思い起こせばよい。そのやり方も、ちゃんと三大神勅に指示されている。いわゆる「寶鏡同床共殿」の神勅である。
「吾(あ)が兒(みこ)、此の寶鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視るごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にし、以(も)て齋鏡(いはひのかがみ)と為すべし」
 このご神勅と違うことがはじまったのが、崇神天皇の時代である。つまり、それまで宮中でお祭りしていた天照大御神の御依代たる寶鏡を別の場所にお祭りすることになり、結果的にそれが伊勢神宮に祭られた。
●いま、日本という国がその持ち来たった国柄を失うか否かの亡国の危機に際して中心に建てるべき「立国」の根本は、ご神勅に指示された同床共殿をご指示通りに復活することである。それを、わが国発祥の地たる大和で、天皇陛下に行なっていただく。そのためにこそ、「祭ごと」の都を大和に還都する。このことを切に願うものである。

 新還都論 V ── 復古こそ維新なり
    (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)5月1日第162号)

●明治維新このかた、わが国は欧米列強の自由貿易主義=植民地覇権主義に対抗するため、常に戦時非常体制を強いられて、社稷の確立は二の次にせざるを得なかった。いわば、火事場の急に対応するのに忙しく、根本的な防火体制の確立が等閑にされたのであった。
 玉松操の起草にかかる「王政復古の大号令」も、草稿では「建武新政への復古」を謳っていたものが、玉松の師大国隆正の叱正により「神武創業への復古」に改められた、という逸話を三橋一夫に教えられたことがある。
 尊皇思想の未曽有の盛り上がりによって、機能不全に陥った幕藩体制に揺さぶりをかけ、小規模な戦闘はあったが外国勢力に支援を許す国家分裂という最悪の事態は辛くも回避しつつ成し遂げられた明治の回天維新もまた、わが国独自の文明に基づく国家体制の確立という意味では未完の革命だったのである。
 新国家の社稷確立の任を担うべき大国隆正の門弟たちも、明治四年から九年の政権内部の権力闘争により要職から一掃され、「復古」の充実を図る人材は皆無となった。維新政府はそれ以後、福沢諭吉流の「文明開化」路線をひた走る。
●明治維新にさいして「王政復古」が叫ばれたが、それは「復古」とは言いながら、実は日本列島全域に及ぶ「神国日本」の新しい国家体制を樹立するという意味で歴史上初めての課題に直面していたのだった。
 わが国の歴史を省みれば、神武天皇ご創業に自覚された「肇国の理想」すなわち「神国日本の建設」が十全に実現された時代は残念ながら存在しない。天皇の「祭ごと」を承けて「政ごと」を付託された各時代の最有力者が「神国日本の建設」を想わず、ひたすらに「私領」の拡大に専心したからである。だが、わが国が国家的な危機に直面するたびに自覚されたことは、「祭ごと」と「政ごと」の一体化であったと言ってよい。
 明治維新を担った尊皇の志士たちは、前時代の幕藩体制の下ではむしろ不遇な下層階級に属する者たちだった。下層の武士や貴族、また町人たちだったのである。この意味で、明治維新においては、その意向を絶対に無視できない最有力者なる者は存在しなかった。
 したがって、維新回天の事業における勲功はあっても、それをもってただちに「私領」の拡大に趨る怖れはなかった。すなわち、明確な指針さえあれば、わが史上初めて「神国」に相応しい国家体制が実現できたはずなのである。それは天皇の「祭ごと」を基とし、政権担当者の「政ごと」に一致協力するという国家体制であったはずである。
 しかるに、「政ごと」に自信のなかった政権担当者たちは、天皇をいわば借りだして東京に遷都し、その後もお返し遊ばすことなく、借りっぱなしになっているのが現状である。いま改めて未完の維新を引き継ぐ第一歩は、天皇陛下の「祭ごと」の府を大和・飛鳥に戻すことである。それこそが、西洋流の発展史観を脱却する日本文明の発露となろう。ただ、「政ごと」としての首都は東京であってもかまわない。ゆえに、「還都」という。
●西洋文明の基本的性格をよく表わしている「発展史観」とは、その本質をなす征服掠奪の所業を湖塗するための文飾に過ぎない。その文飾の緻密、規模の大、廉恥を弁えぬ横柄に恐れ入った明治の先人たちは、それを文明と勘違いして、我を卑小とし彼を貴しとして「文明開化」に邁進したが、それは早合点であった。文明にあらざる彼の「発展史観」に対置すべき言葉はわが国にはない。そこで、誰もが抱いている思いを仮に「共生史観」とでも名づけよう。この「共生史観」からは、強奪の市場原理も植民地主義も出てこない。共に生き、共に栄え、不足があれば補い合い、助け合う暮らしぶりがあるばかりである。そして、「共生史観」の根底にあるものは、先人の亀鑑であり倣うべき倫理である。「復古」とは、原理の深化であり維新なのである。大和・飛鳥への還都こそ、わが日本文明の実現であり、社稷の根本を建てることである。

 新還都論 U ── 「まつりごと」とは何か
     (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)5月1日第161号)

●先号に「新還都論」なる一文を草したが、今にわかに「大和・飛鳥へ還都せよ」などと唱えれば、何たる時代錯誤、狂人のたわごとと嗤われるかもしれない。それは覚悟のうえである。当今の世風からすれば、奇矯の言であることを承知のうえであえて言っている。
 明治御一新以来すでに百三十有余年、首都が東京にあることに疑いをもつ者は、皆無であろう。繰りかえし言う。「首都東京」は臨時措置であった。それが時の経過のまま放置され、常識と化したにすぎない。
●国家とは何か、民族とは何か、という本質からすれば、わが近代国家百年の大計は易きに流れたと言うべきである。亡国の危うきにさらされた国難を凌いで、新しい装いの下によくぞ日本を存続させたことは、語り継いで余りある先人の偉業である。だが、形ばかり残って本質たる中味を失っては、何の意味もない。外に備えるに外に倣うこと急であったことは論を待たないが、日本が日本たることの本質を不断に更新する努力は等閑にされて、いまやその必要を感じる者すらわずかである。
日本はいま亡国の瀬戸際にある。
●改めて言うが、これはけっして?史の自然の然らしむるところではない。国家を解体し、社会の紐帯を断ち切って、家族を崩壊させ、国家をバラバラな個人の寄せ集めにすぎない烏合の集団へと転化させたい一派があって、われわれはその思想工作に骨の髄まで洗脳されかかっているのである。試みに一七七六年の「イルミナティ綱領」や一八四八年に発表された「共産党宣言」を見よ。両者の酷似は当然のことだが、そこには共通して国家解体・家族崩壊のプログラムが露骨に表現されていることに気づくであろう。
●国家・民族解体、家族崩壊の思想戦を戦うためには、日本が日本たりうべきギリギリの本質は何か、これを失えば日本が日本でなくなるような最後の一線とは何なのかを明確に承知していなければならない。
 私見によれば、日本の本質とは、一天万乗の天皇陛下を戴いて君臣相和し、肇国の理想たる神国の建設に邁進することにある。神国とはひとりわが日本の繁栄を謂うのではない。今日の言葉でいえば、地球共存、世界協和とでもいえようか。
 日本にとって「まつりごと」とは、この理想の誓約を神人ともに更新する「祭ごと」と、この理想を具体的に施策する「政ごと」とに分かれるが、順序からすれば「祭ごと」が主であり、「政ごと」はそれを承けて行なわれるのである。「まつりごと」総体の責任はあげて天皇陛下にあり、「政ごと」の実行責任者は、勅を受けてその任に当たる。政策実行者は時代によって大連・大臣であったり、太政大臣であったり、はたまた征夷大将軍、総理大臣であったりしたが、「まつりごと」の總責任者たる天皇陛下の勅を受けて任に当たったことに変わりはなかった、……この度の敗戦までは。
●これを支那・西洋流の唯物論的国家観から見れば、あたかも二人の王が統治しているかのごとくに見えることから、「二王制」と誤解する向きもあるが、けっしてさにあらず。二王が並立していると見るのは、神人共知の本質を見誤った謬見である。
「二王制」といえば、中央アジアに覇を唱えた突厥が唐に敗れ西方へ長駆してカスピ海西岸域に建国したハザール王国が聖王・俗王の二王に統治されたとの伝承があるが、いまだつまびらかではない。
 また、中世西欧における神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立も、国家にとって本質的な二王制実現の途上で頓挫した苦渋の?史だったとも考えられる。
●わが国において、「まつりごと」の衰微は、崇神朝の同床共殿の廃止からはじまった。すなわち、天照大御神のお祭りを宮中において天皇陛下みずから行なわれることを廃止し、別所に別職(齊宮)をもってお祭りすることに変わったのである。わが日本の本質を取りもどすには、ここに歸る必要がある。 

 新還都論 T ── いざ大和、そして明日香へ
     (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)4月15日第160号)

●先に本欄で満洲民族・満洲語の消滅を憂い、満洲建國の祭儀の行なわれた天壇の現状を案じたことがある。しばらくすると、その心配はわが身にもどってきた。よその国の話ではない。わが日本もいま、日本語を失い、民族としての文明の力を崩壊せしめるかどうか、それとも一大奮起して世界のこぞって拠るべき共生の指導原理を提案できるかどうか、その瀬戸際に置かれているのだと、改めて気づいたからだった。
 試みに思え、神武天皇が肇国の誓いを立てられた、あの橿原神宮の地が外資に買収され、遺伝子組み換え食品会社の工場に成り果てることを。そんな身の毛のよだつような事態もいまや、あながち荒唐無稽の想像ではなくなってきた。
●いまこそ、目先の利便や合理を突き破って、わが日本が日本たり得る本質を正さなければ、日本は亡びてしまうであろう。そのもっとも中核たるべきは、恐れながら申し上げるに、天皇陛下の「まつりごと」にある。明治維新によって西洋風の近代国家の道を歩んできた日本の在り方からすれば、「まつりごと」とは「政」の一字で表わされることを誰しも疑わない昨今であるが、実は「まつりごと」には、もうひとつの重要な面がある。それを一字で表わせば、「祭」である。
 周知のように、憲法によって天皇陛下には「国事行為」なるものが規定されていて、例えば国会の開会を宣言するとか、諸外国への親善訪問とかがそれに当たる。しかし、そうした「政」の領分に属するお役目は、御不豫の場合の慣例にもあるように御名代でも代行できる。
 ところが、もとより下々の関知するところでないので僅かに洩れ承るにすぎないのだが、陛下のもっとも重大なお役目は、天神地祇をお祭りしていただくことである。こちらは、余人によって代理することのできない激務であると聞く。
 もちろん、陛下の御心に従って、御詔勅を携えた幣帛使を立てて各地の神々の下へ派遣することは可能であるし、かつてはそうしたお祭りの仕方が行なわれた。近時、そのような幣帛使の例は、絶えてない。GHQの占領政策により「国家神道」の最たるものとして厳禁されてきたからである。
●神と民との間にあって、民を思い、神をお祭りすることが、歴代の天皇陛下のお役目であった。「民を思う」ことが「政」となって、今日の政治に連なっているのだが、國家としての社稷の中核たる「神をお祭りすること」の方は、陛下に御不自由を強いて久しい。
 ここを正さなければ、枝葉末節をいくら弄くったところで、日本は本来の日本たりえない。ときに自然の猛威にさらされても、神々の恵に浴し、神々と共に生きてきた日本民族の暮らしの中核には、すべての労働が神事であったと喝破した三橋一夫の説にあるように、年中行事としての祭りがあり、さらに日本国中の祭りを支えているのが、歴代の天皇陛下の「まつりごと」だったのである。
●その「まつりごと」という激務を行なっていただく天皇陛下の「宮処(みやこ)」として、関東の地が果たして相応しいかどうか、いま改めて問うべき秋にあると思う。そのそも、陛下が関東まで御臨幸となったのは、倒幕戦において心許ない薩長軍に天佑神助を仰ぐための、いわば戦時非常態勢であった。日露戦役のとき広島に置かれた大本営に御出御になったのと同じである。それが、薩長の不甲斐なさのゆえに、ズルズルと今日まで継続することになったのである。
●ひところ喧しかった首都機能の移転先同士の誘致合戦も、この不況でなりを潜めているようだが、私が言いたいのは、便宜や利便のための首都移転とは異なる。御一新以来、永く御不自由を堪えていただいてきた天皇陛下の「まつりごと」の場として、「宮処」を京都へ、いや、日本発祥の地である大和、そして明日香へと「還都」することこそ、いまもっとも大事な「国事行為」ではなかろうか。

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